小学生編
改めまして。
こんにちは、アビタコロの植松です。
初めてのブログ投稿なので、
まず自己紹介から始めたいと思います。
まずは小学校ぐらいからですかね?
そっから?ってなりそうですけど、
普段から河南料理とかってやってるので、幼少期の事から書いた方が良いかなって気がしまして。
大阪府南河内郡河南町の出身で、
大宝という地域で生まれ育ちました。
河南町の中では比較的新しく開発された住宅地
(1970年に成立なので自分が生まれる14年前)で、
元々10丁目まで開発する予定が、
途中で古墳群が出土し、
5丁目で終わるという、
歴史ある地域での"あるある"のような事がおこったみたいですね。
なので、10丁目まで作った時の真ん中になるように5丁目に近つ飛鳥小学校(旧大宝小学校)をつくったみたいです。
そのおかげで?で、小学生の時は裏山として近つ飛鳥風土記の丘で遊びまわってました。
展望台まで行っり、鬼ごっこしたり、誰かが作ったであろう蔓性植物の自然のブランコなんかがあったのを覚えてます。
誰かが山でアケビや柘榴を取ってきて、教室で食べた様な記憶もあります…たぶん。
あとは、当時何も考えてなかったですけど、かくれんぼの時に古墳の中に入ったりしてましたね。
罰当たりなもんです。
因みに、大宝のバス停の名前って阪南ネオポリスって言うんですよ。壮大ですよね。大阪の南に出来るネオポリス。
実際の大宝見たらネオポリスってなんやっけ?ってなりますね。
あ、でも、2丁目のネオポリス公園は大きくて良く遊んだ記憶あります。大宝で一番大きかったんですよ。
他にも家から近かった西公園とか中央公園はよく遊んだ記憶あります。
小学校の時大宝の中だけで遊んでました。
公園か友達の家って感じでした。
家では母親がケーキとか作ってくれていたので、手伝ったりするのが好きでした。
ショートケーキのクリームを泡立てるホイッパーに残った生クリームを兄弟で取り合ってましたね。
それ以外にも、この頃から料理は好きでよく手伝いたがってました。
仲の良かった友達がコックさんになりたいといていたので真似してコックになりたいとこの時に初めて思いました。
それ以外にも、設計士、大工、画家、社長、有名人とか謎に色々なものに憧れてました。
そういえば、実は幼稚園の年長から小学校2年の夏休みまで父の仕事の関係で千葉に住んでた時期あります。
千葉県成田市橋が台小学校って所にかよってて、いまだに校歌覚えてます。笑
おーおーブリッジブリッジー...みたいなやつ笑
校歌は関係ないんですけど、ちょうどその時期って言葉が流暢になる時期で言語形成期って言うらしいんです。
もともと大阪弁をマスターしていた筈なんですけど、
完全な標準語で帰ってきたんですよね。
なんでやねんっていうのがとにかく恥ずかしかった記憶があります。
仲良かった同級生が植松がなんでやねんって言ったぞーみたいに驚かれた記憶あるぐらいに。笑
という事で、無事に?小学校で再び大阪弁をマスターして植松少年は中学校に進学するのでした。
中学生編
近つ飛鳥風土記の丘を駆け回り、
大阪弁をマスターした植松少年は
河南町唯一の中学校である、
河南中学校に進学しました。
因みに、小学校は当時5校ありました。
大宝小学校(1972年昭和47年開校)
石川小学校(1871年明治4年開校)
↓統合
近つ飛鳥小学校(2011年平成23年)
白木小学校(1887年明治20年開校)
中村小学校(1886年明治19年開校)
河内小学校(1873年明治6年開校→1990年平成2年さくら坂に移転新設)
↓統合
かなん桜小学校(2019年平成31年)
こんな感じで統合して今は2校になってます。
因みに河南中学校は1958年昭和33年開校です。
最初から今まで1校のまま寺田という地域の
河南町役場前にあります。
中学生になり大宝以外の地域を知って河南町って本当に広いと痛感しました。
大体みんな自転車で通学なんですけど、
山の上の子とかかなり大変そうでしたね。
当時よく遊んでたのが、寛弘寺、寺田、東山、大宝の地域の子たちでまだ平地って感じの真ん中から北側の地域でした。
今うちで使わせてもらってるタナカファームは上河内って地域になるんですけど、行った事なかったですね。笑
めちゃくちゃ山の上なんで今自転車で行けって言われたら、何がなんでも断ると思います。
葛城山のに連なる場所になるので、東に行けば行くほど標高が上がるイメージです。
標高&海抜まとめてくれてるものがあったので貼ります。
鈴美台三丁目|102.6m
鈴美台二丁目|134.2m
さくら坂南|238.8m
鈴美台一丁目|130.3m
大宝五丁目|141.3m
さくら坂三丁目|214.6m
さくら坂二丁目|233.0m
さくら坂四丁目|196.7m
大字大ヶ塚|66.0m
さくら坂一丁目|204.9m
大宝三丁目|91.0m
大字馬谷|122.7m
大宝一丁目|73.2m
大宝二丁目|81.8m
大宝四丁目|103.2m
さくら坂五丁目|189.6m
大字山城|59.1m
大字芹生谷|211.9m
大字東山|67.7m
大字寺田|55.4m
大字神山|85.9m
大字一須賀|44.8m
大字下河内|227.5m
大字中|115.4m
大字弘川|343.0m
大字寛弘寺|77.6m
大字加納|88.3m
大字持尾|291.7m
大字白木|93.4m
大字上河内|256.0m
大字平石|470.8m
上河内ぐらいまで行くと、あれ?本当に大阪ってぐらいの雰囲気が出てきて、市内から車で1時間ちょっとなのにすごい田舎感が出ていて軽い旅行気分が味わえます。
特に、上河内の近くに弘川という地域があり、
弘川寺というお寺があります。
西行法師の臨終の地として有名で、桜の名所でもあります。
当時西行が詠んだ歌に
「願はくは花の下にて春死なん そのせせらぎの望月のころ」
というものがありますが、
広く日本を旅した歌人が終の住処に選び、
この春の桜の下で死にたいとまで詠わせた桜を今も見ることができます。
そういえば中学生の頃は何になりたいとか特に考えて無かった気がします。
本当に主体性のない性格だったので、仲のいい友達が言ってるからそれになりたいって真似して言ってました。
この頃は料理人と画家と警察官になりたかったかな。
将来の目標は長生きとか言ってたかな。
とにかく田舎でのんびり過ごしてた感じですね。
隣町の富田林まで自転車で出るのが精一杯で、電車なんて一人では怖くて乗れなかったし、この頃の自分の世界は河南町の半分と富田林の半分ぐらいでした。
それでも特に何も思わず、田舎のスローライフを満喫していた植松少年は、
高校受験というものに出会うのでした。
高校生編
一応、中学校の先は高校があるという認識は子供の時から有ったんですが、本当に何も考えて無かったのでとりあえず実家から一番近い高校に行きたいなと思ってたんです。
そこが学区の中でも偏差値高いところで、普通にいけなかったですね。笑
結局行ったのが河内長野市のある長野高校でした。
確かこの時初めて一人で電車に乗ったんです。
高校1年生で初めて。
富田林から河内長野までの学生定期券で乗るんですけど、2週間ぐらいで定期を無くしまして、その後3年間自転車通学しました。河南町から河内長野まで4〜50分かけて河川敷のサイクリングロードを雨の日も風の日も通い続けました。
なので、あまり電車に乗ることは無かったんですけど、電車の路線図を見たときに自分のいる場所があまりにも端っこで、ついでぐらいの場所にある事に衝撃を受けた記憶があります。
この頃からこんな田舎抜け出してオラ都会さ行きてえだって思い始めました。
今思うと遅すぎなんですけど、本当にそんな感じだったんです。
ただ、先の事は全く考えてなくて、団体行動が苦手だったので会社勤めは嫌だなーなんて思ってはいたけど、したいことがある訳でもなく、どーしよーかなと考えて思いついたのが、料理人か芸術家でした。
丁度、高校生活の3年間父親が単身赴任のため不在で、兄弟の分も含め自分で料理をする事が多く、だんだん料理が好きになっている時期でもありました。
芸術家というのは実家の近くに大阪芸術大学があり、そこにいけば楽しそうぐらいの安易な考えでした。
ちなみに芸大に行く人は芸大専門の受験対策がある事を知りもしなかったので、スタートにすら立たずに終わりました。
そんなこんなで、調理の専門学校に進学させてもらうことになりました。
専門学校編
高校も自転車通学だったのでほとんど電車に乗ったこともないまま、専門学校の通学に使ったのが地下鉄御堂筋線でした。
天王寺から北浜まで地獄のような満員電車を我慢すれば、これまで来たことも無かった大都会で、全てが新鮮で輝いて見えました。
同級生も他府県から来ていたり、大学を卒業してから来ている人もいたりで、一気に世界が広がった感じがありました。
当時難波でアルバイトをしていましたが、正直難波でバイトしてるていう事に憧れていたからでした。
すっかり都会に染まり、田舎なんか絶対帰らないと心に誓いました。
料理は好きだったんで、真面目に勉強して、練習してちゃんと学校に通っていました。
本当に毎日楽しかった。
ただ、また悪い癖なのかなんなのか進路というか就職活動を全くしてませんでした。
卒業する3月まで何も決まらず、食べに行って美味しいと思ったところにダメ元で電話したら、運よく雇ってもらえました。
それが初めての就職先のOPIUMでした。
自分で言うのも恥ずかしいんですが、本当に何も考えずふらふら生きてきた人間だったので、社会の厳しさをしっかり叩き込まれました。
そのおかげでなんとか今もまだ料理を続けれています。
その後色々な経験や勉強をして、料理を始めた頃とは真逆に地元愛強めになってました。
料理を始めてからの事はまた別の機会に。
一旦自己紹介というか、生い立ち、なぜ料理人になったのかというところはここまでにさせていただきます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
コメントをお書きください